記事一覧

【Vol.93号記事】 塩

前回はちょっと重めの内容でしたので、今日は簡単なマメ知識を紹介。
この暑い夏、ニュースで熱中症の報道を見たとき
「皆さんこまめに水分補給を行って下さい。それと少量の塩分摂取しましょう」
とキャスターが言っていましたが、私達人間にとって水分と同じくらい大切で、
人間は塩無くして生きていけません。塩分の摂り過ぎはよくありませんが

そんな塩は古来から清めの道具として世界的に使われていました。
たとえば日本では神に捧げる大切な供物であると同時に、相撲に見られる様に
場を清めるのにも使われました。
ヨーロッパでも塩は清めの意味があって、聖書にもたくさん記述されていますし当時は生まれた赤ん坊を塩で清めたり、水を塩で清めることもしていたそうです。
洗礼で使われる聖水に少量塩を入れていた時代もあったとか。

もっともこれは水が腐敗しない様にする為の配慮でもあったわけですが、水に塩を加える事でよりいっそう清めの意味が高まる気はします。

旧約聖書には「神への供物には塩をかけよ」という記述もあり、これは神様も塩気の無い(味気ない)供物は好まないだろうという人間的な配慮(?)もあるでしょうし、また塩をふりかけることで
神と人間との契約を意味したそうです。

そのため、同じ食卓で食事を共にする=塩を分かち合う事が、交わり、繋がりを意味しました。
一緒に食事をするというのは、日本でも親しい関係を作る為によく行われる事ですし、世界的に見ても同じような感じがしますが、昔から特別な意味があったわけですね。

そして、古代ローマ時代には塩(ラテン語でsal)がお給料(報酬)でした。この給料のことを『サラリウム』と呼んでいて現在の給料(サラリー)の語源になっています。なるほど塩はお金程に価値のあるものだったわけです。

日本でも塩で土地が買えたそうですし、江戸時代には公益目的で塩を専売する藩が多数あった事や交易品になったりしましたし、
後に大蔵省で塩の専売制が行われていたのを考えると、塩とは本当に重要なものであるのが分かります。

私は時々塩をオーラクレンジングやクレンジングスプレー作りに使います。
それに使う為の塩は御嶽山に滝行に行くたび、御嶽神社で買う御神塩。
ご祈祷されたもので、神棚用として売っていますが神事用にも食用にも使えるきめの細かい塩です。
沖縄の宮古島では清めのために玄関に塩入りの袋を置く習慣があるそうですが、以前宮古島のおみやげで
いただいた塩もけっこうパワフルでした。

塩を少量入れた風呂に入ると発汗作用があって肉体のみならず、エネルギー的にも浄化によいと言われています。
暑い季節はのぼせやすく、発汗作用がかえって徒になるのでお勧めしませんが、粗塩で体をこするとすっきりしますよ。

【Vol.92号記事】 科学技術といのち

今日はあまりスピリチュアルと関係無さそうな「科学技術」という事についてお話しします。

実はこの発展とその幕開けは私達日本人にとっては切っても切れない重要な出来事に関係していて、それは霊的な事を語るに欠かす事の出来ない『いのち』にとても関わりの深い事柄です。

20世紀以降、飛躍的に進化し、それまでの世界と決定的に違いをもたらした一つが「科学技術」の出現でした。
科学は学問として行われる様になり、科学者という専門家が現れたのは19世紀くらいだそうです。
今でこそ科学技術とひとくくりにして何の違和感もありませんが、昔は『科学』と『技術』は結びつきが無く、
またその世界にいる人々のスタンスは全く異なるものでした。

技術は人間の生活が進歩して行く中で実践から生まれ、その時その時結果を出しては養われて来た世界です。
一方、科学は知的好奇心から始まった思弁的な世界で、学問的で、研究結果は実践として応用することはありませんでした。

ヨーロッパの学問のエッセンスであるギリシャ哲学は、思弁的である事がステイタスで、労働から開放される事が特権階級へと結びつき、実践(労働)は卑しいものとなり、哲学者達は実践的活動に意味を持たせませんでした。

つまり発明家や技術者といった職人は科学とは全く関係のないフィールドから生まれて、科学とは違う方面で発展したと考えられます。
それが19世紀くらいから徐々に歩み寄りを見せ始めます。
さて、時間をかけて歩み寄りを見せたこの二つの分野がやがて形となって結果に結びつく出来事を引き起こします。

世界で最初の科学技術の試みはいったいどこでどのようにして行われたのでしょう?
これは戦争です。それまでとは全く違う世界を決定づける科学技術の登場を宣言したのは広島に投下された原子爆弾でした。
そして次々に科学技術は発展し、ついに母なる大地を離れ、宇宙へと飛び出しました。
その一方で、外へと大きく広がった科学技術は、内なる小さな小さな分野、つまり遺伝子にも及びました。

科学技術の発展は私達人間の暮らしをとても便利にしたり、夢を与えてくれる一方で、深刻な事態を簡単に作り出せる事も知らしめました。
環境ホルモンなど、化学物質の生産によって、それまで直接的にしか誰かに危害を加えることが出来なかった世界が、見た事も会った事も無い人にまで危害を加えられる世界になったということです。

その対象は人間だけでなく、私達の住むこの地球にも及びました。
そして地球自体が病み始め、環境破壊、生態系といった言葉が世に出てくる様になったのです。

科学技術の発展により、「自分がされて嫌な事は人にはしないようにしよう」という対面の理論では成り立たない時代になってきました。
一人が責任を負うのは顔の見える相手に対してでよかった時代は終わりを告げ、一人一人が顔の見えない相手にまで責任を考えなければならない時代になりました。

アメリカン・インディアンの一部族であるラコタ族には別れや結びの言葉としてよく「ミタクウェ・オヤシン」(all my relation)日本語で『すべてとつながるいのちと共に』と言います。

すべてと繋がるいのちとは、人間のみならず、地球と地球上に存在するすべての生命を指し、共栄共存の平和を願う言葉でもあります。

私達人間は科学技術の恩恵なしには生きられなくなってきていますが、一方でその恩恵を得るために自らの首を絞めてきたことも確かで、今多くの課題を私達一人一人が背負っています。
一人一人がこの課題に取り組まなければなりません。
これはエコブームという流行のようなもので片付けられる話でもありません。
政府や専門機関といったところに任せるのは簡単です。しかしその結果の責任の所在が曖昧になってしまう事を忘れてはなりません。

これから先、いのちに希望のある世界を新しく作っていくのは私達一人一人の責任です。

【Vol.91号記事】 愛と愛情

前回は「霊と魂」の違いについてお話ししました。今日は「愛」と「愛情」の違いについて。
これは霊と魂よりももっと身近な感じがしますので、なんとなく分かるような気がするのでは
ないでしょうか?

単純に表現してしまえば、「愛情」は本能と感情によって生じるのに対し、「愛」は理性が
伴うと表現すると妥当かもしれません。

愛情は好き嫌い、危険かそうでないかなどに由来するもので、好きな人や好きなものに愛情を注ぐ事はできても
嫌いな人や嫌いなものに愛情を注ぐ事は出来ません。まして生命の危機を感じるような人や物に対して
抱く事は難しいと考えられます。本能に由来するものですから私達はあらかじめこれを持っています。
愛の反対語は憎しみだと言いますが、これは愛情の反対語が憎しみだと言えるでしょう。

一方、愛は上記のような事柄で区別されるのではなく、理性から発生するものですから、
嫌いであっても愛する事は出来ますし、生命の危機があると分かっていても愛する事も出来ます。
そこには赦しや感謝、祈り、見守る、受け入れる、見届ける、和解、平和といった事柄も含まれるでしょう。

こうやって考えると、概ね動物は愛情はあるけれども、愛は人間固有のもののような気がします。
もちろん、進化の度合いで犬や馬などは愛情を超えたなにかを感じる事はありますが、そのいくらかは
動物自体が生命維持のための本能的な選択の結果であるとも考えられます。

人間は平和的にも暴力的にもなれますが、動物は戦争はしません。
動物達は餌を奪い合うために戦いますが、人間のような戦争はしません。
多くの動物は恐くなると攻撃に出ますが、このように恐怖は攻撃性を生み出します。
恐怖は人間のみならず動物にだって備わっている本能的なものです。
しかし人間の場合、怖れに裏付けられた多くの感情(嫉妬、競争、独占欲、ねたみ、恨み、執着、被害者意識など)
と、そして他の動物より格段に発達した脳を使ってとても複雑な攻撃の仕方ができます。
それは時に非常に残酷な事さえも行える程。

また同時に人間は和解する力や許し合うという選択肢も備わっています。
人間は、たとえば過去の自分から開放されたい、未来の自分を作りたいと思います。
どちらの傾向も人間の特徴を表していると言えるでしょう。
そうやって時間の中で生き、しかも自由を与えられている人間はいろいろな可能性の実現を試しながら
自分自身の生き方を選択しようとする動物です。
その中で私達は「愛」を学び気付いていくことになります。
大いに進化した人間は、その核ともいえる本質の中に秘められた『愛』を元々持っている存在です。
しかしそれを生まれもってそれを理解しているわけではありません。
愛は学びや気付きによって理解に至っていくものだと思います。

最後にこんな言葉を
「人間は愛無しに生きる事は出来ません。人間にもし愛が示されないなら、人間がもし愛に出会わないなら、
もし愛を体験しないなら、もしそれを自分のものとしないなら、もしそれに心からあずからないなら、
人間は自分自身にとって不可解なものあであり、その生活は意味のないものです」
教皇ヨハネ・パウロII世回勅より

ページ移動