記事一覧

【Vol.77号記事】 謙虚である事

謙虚とは、辞書で見ると「控えめで素直な事。謙遜。へりくだること」とあります。
日本人は相手を立てるというのが礼儀の一つで、何か会話をしていて自分の事を低くし、
たいした事が出来ないようなことを言ったりします。
「粗茶ですが」「つまらないものですが」と。
昨今日常に埋没したこれらの言葉はもはや単なる社交辞令的なものになっているかもしれません。
そしてもはや古くさい道徳のようにも思われるかもしれません。
あるいは、相手に従属するような感じ、自己卑下のような感じ・・・そんな風に感じてしまうと
謙虚という言葉がなにか良くないイメージにも感じられるでしょう。

しかし、謙虚である事とはそのようなことではなく、自分の身の丈を知り、
本来の自分に相応しい行いをする事だと思います。 傲慢になるわけでもなく、
背伸びをするわけでもなく。
そして相手を立てるという「思いやり」の心から始まるものです。
思いやり・・・別の言い方をすれば、「愛」。
それは自分の内面から自然と出てくることが望ましいのは言うまでもありません。

人はどうしても周りから認められたかったり、良く見られたかったりします。
自分の現在の能力に見合ったこと、長所をありのままに知り、それを素直に表現して
いくならまだしも、誇張したり、自慢したり、本来の自分以上に見られたいという評価を求めた場合
どうなるでしょうか?
このような事はやがて見栄やステイタスにがんじがらめになり、傲慢に繋がっていくでしょう。

本来の自分、素直な状態での関わり合いではなくなってしまいますから、それは
人間関係において嘘をつく事になるかもしれません。あるいは表面的な関わり合いにしか
なりません。ここにさらに傲慢が重なると、人を見下す事に繋がっていくでしょう。

地道な努力と自分の身の丈を心得ずに、スピリチュアルなワークをしてかえって第六チャクラのバランスを崩し、自分を特別な人間と勘違いし、高慢になってしまう人もいます。
それでは分け隔てない無条件の愛から離れ、スピリチュアルから遠ざかるばかりです。

謙虚である事とは、ありのままの自分を知り、それを素直に表現する事。
そしてそこに「愛」があることです。

【Vol.76号記事】 内を省みる

精神世界でよく言うところの「内省」「内観」についてのお話しです。
他の言い方をすれば「反省」とも言います。反省と書くと、なにか悪い事をしたような
感じに受け取られるかもしれませんが、この反省は内省、内観と同じで「内を省みる」事を指しています。

論語に「曽子曰く、吾、日に三たび我が身を省みる。日の為に謀りて忠ならざるか
朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」というのがあります。
孔子の弟子である曽子(そうし)は『人の為に心を込めて考えただろうか?
友達との約束を守っただろうか?自分では学習不足の事柄を人に伝えるような事をしなかっただろうか?』
と毎日三回は内を省みるという意味です。

一日のほんの少しの時間でも、その日の出来事を振り返り、不実ではなかっただろうか?
義に背かなかっただろうか?良心に反しなかっただろうか?と思いを巡らすのは大切です。
このような作業は自らを向上させていく第一歩になるからです。

また、この反省といったものは、別の言い方をすると「回心」とか「悔い改める」といった言い方もできます。
べつに悪い事をしたわけではないのになにゆえ悔い改めなければならないのか?と思われるでしょうが、
本来この言葉は「心を巡らして、良き方向へ心を向けかえる」作業です。

私達は日頃からちょっとしたわがままで人を傷つけたり、見て見ぬ振りをしたり、怠惰な理由で約束を破ったり、
誰も見ていないからとその辺にゴミを捨てたり・・・。法律を犯していなければそれでいいのでしょうか?
日本は飽食の時代になって、かつての様に肉体的な飢餓感に苛まれる事は少なくなりました。
その代わりやってきたのが心の時代、心の飢餓感に苛まれる時代です。
それ故に一人一人の良心がよりいっそう問われる時代になって来ているとも言えるでしょう。

偉そうにこれを書いている私は決して偉くもありませんし、まして立派な人間でもありません。
はた迷惑な事を書いていないか?義や愛に反した事を書いていないか?
毎回反省しています。
人間が人間である限り、100%聖人君子になれるとは思いませんが
かといって諦めて怠惰になってしまったら、自分を貶める事になると思います。
それは自己成長を失うばかりか、やがて心が貧弱になって、他者愛にも反することに繋がるでしょう。

生きている限り一歩一歩前に進んで成長していく事を忘れてはいけません。
足りるを知る事も必要ですから、力まず無理無く等身大の自分という見地から
内を省みる時間を大切にしましょう。

【Vol.75号記事】 一日一日

前回のスピコラに「四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳にしたがい・・・」
という孔子の言葉を書きました。これは七十過ぎとなった孔子が人生を振り返って
そう感じた事です。

天命とは人間の力の及ばない大きな力や存在というものから自分に与えられた使命を指していて、
五十を過ぎる事にはそれまでの人生を振り返り、自分がどうあるべきかを思いめぐらすようになる
のではないでしょうか。

日本は世界屈指の長寿国になりましたが、だからといってこの先何が起こるか分からないのが現実です。
明日の事も分かりません。未来とは不確定なもので、ある日突然亡くなる事だってあるわけです。
孔子が先ほどのような言葉を残したのは、恐らく彼が一日一日を大切に生きて、死のその時まで
進化進歩することをせず、積み重ねて来た人生があったからだと思います。
生きている今日という日が大きな意義を持って、大切な瞬間なのです。
先の事が分からないからと、今を楽しんでおけば良いと、周りに迷惑をかけたりというその日暮らしとは違います。

尊い使命を与えられているのは、決まった人間だけではなく全ての人です。
だからこそ、一日一日を大切にする人は、同じ様に使命を生き切るために生きている周りの人々に対して
尊敬することができるでしょう。だれもが掛け替えの無い今日という日を生きているのです。

どれほど立派に見える建物も、基礎がしっかりしていなければ倒れてしまう様に
人生の中における一瞬一瞬の出来事を大切にして人生を積み上げていければ
どんな嵐にも揺らぐ事の無い人になれます。

人生の土台作りにマニュアルはありません。
人生の中で起きる出来事、試練から何を学び、それによってどんな行いをしたのかの積み重ねが
やがて土台になっていきます。

だからこそ、一日一日を大切に生きる事は大切です。何気ない日々の出来事の中に
気付きや学びのふとしたきっかけが潜んでいるからです。

しかしながら、一日一日を大切に生きるといっても、がむしゃらになっていろいろやるのとは違います。
レイキを開発した臼井氏が「自分の手に負えない事は天に任せて、ゆるぎない心境を獲得する事」
という意味で安心立命を説いています。これは新約聖書にでてくる「思い煩うな」  というイエスの言葉と
同じです。この言葉の締めくくりは「明日の事は明日思い煩えばよい。その日の苦労はその日だけで十分である」です。
結果が今出るわけでもない先々の事を思い煩っても仕方ないのに、私達はそのようなことで
いちいちくよくよしていることが結構多いものです。
くよくよするくらいなら、心静かに安らかに、自分の核へと耳を傾け、自分を見失わない様にする方が有意義でしょう。

現実的には多少先の事を考える必要はありますが、思い煩っても仕方の無い事に無駄な時間を割いている
事も事実だと思います。そんな時間を今この瞬間に留まって、自己成長のために使えたらけっこういろいろ
できるのではないでしょうか?

ページ移動