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【Vol.96号記事】 ノーガードプロテクション

『守らない事が最大の防御』
合気道など護身術では、腕を引っ張られたらそのまま引っ張られるままにして相手の体勢を崩すといった技法があります。

私達には本能的に自分を守ろうとする自己防御本能が備わっていますが、現代社会では時にそれが行き過ぎた心理的自己防衛に発展してしまう事があります。
心理学では「自己防衛機制」とよんだりします。

いろいろな例がありますが、多くは、苦しい体験、経験から逃れるために、この苦しみに伴う感情や思考、欲望などを無意識領域に追いやってしまい(抑圧)、苦しい状況に立たされた時、この無意識的抑圧から無自覚に何かしらの行為や反応をしてしまうパターン。

簡単な例としては、「子供がお母さんから叱られた経験から、再び苦しい状況に陥った際、くどくどと言い訳をする」といった感じです。

このような状態がさらに進むと、単なる言い訳からこじつけの合理化に変化することがあります。
他には、苦しんでいる状況から感情と思考が分離しているために、他人事のような発言周囲からは明らかに自分の母親を憎んでいる様に感じられるにもかかわらず、「客観的に見たら私が母を憎んでいる様に見えるかもしれない」と平然とした様子で言ったりするかもしれません。
つまり自分の本当の感情「母を憎んでいる」という状況から逃避して自覚しない様に振る舞っている。

誰しも、無意識の中に過剰な自己防衛が働いている事はあると思います。それによって自分の苦しみを手放せないばかりか、この自己防衛が歪んだ思考や感情の表現、行為に結びついた場合、人間関係をややこしくしてしまう。
しかし本人はそれに気付いていないからさらに厄介・・・ということになってしまうわけです。

セラピストやカウンセラーは時に、実はこういった自己内の防衛機制に気付かず、つまり癒されるべきは本人
であるにもかかわらず、苦しい経験を経て来たという記憶の元に
「癒す仕事につきたい」=『癒したがり屋さん』
にであることが多いのです。私も例外ではありません。
このような場合、本人は癒しているつもりで、実は
『クライアントを癒しているつもりで自分が癒されている』
『クライアントへの善意の押し売り』になっていることもしばしば。

それが悪いと言っているわけではありません。ただ、そうしている自分が何処かにいるかもしれないという事に気付き、その大元がなんであるか意識に持ち上げる努力は非常に大切であるということです。

自分の中の闇を綺麗なもので覆い隠したままこの仕事を続けるのならば、それは偽善になってしまいます。

私は過去いろいろなワークショップで、「私はカウンセラーです」「ヒーラーです」と胸を張って
「私はこういうスキルを持っています」「こんな問題を抱えた人を癒しました」とおっしゃりながら、最後にはご本人の胸の深い部分にあった闇に気付いて泣き崩れるシーンを何度か見てきました。
また、私自身も同様の経験をしてきています。

カウンセラーやヒーラーだという肩書き(レッテル)を生きる事で、本当の自分の苦しみから逃げ、どこかで虚勢をはっていたわけです。
カウンセラーやヒーラーだけでなく、聖職者だろうが教授だろうが、医者だろうが、どんな人でも同じで、みんなそういう事を乗り越えてはまた気付き、ぶつかりを繰り返していきます。
なかなか終わりはきません。

もしそれが終わる時が来るとすれば、それは完全に防御を外してありのままの自分(本物の自分)でいられる時です。
心の闇を守る(隠す)必要が無くなった時こそ本当に強いといえるでしょう。

この話は一般からすれば極論的な話です。
1997年ペルーの日本大使館人質事件の事で、ある牧師さんがこのようなお話をしていました。
牧師さんは同業者を悪く言うつもりは無いけれど、現実としてたしかにこういうことだと。

『人質の中にはカトリックの神父、プロテスタントの牧師もいました。犯人達の中にはキリスト教信者が多かった。
したがって、神父と牧師は最初のうちに解放されました。しかし神父は自主的に人質として残りました。
一方牧師は出てきました。この違いなんだかわかりますか?』

この話をしてくださった牧師さんがご自身を例えにしておっしゃいました。
『僕は牧師だから、自分が死んだら家族は? 教会は?信者さんは?・・・守らなきゃいけないって思うものがたくさんあるんですね。
カトリックの神父はそれが無い。だから人質が全部解放されるまで死を覚悟して残ったわけです』
確かに、カトリックの神父はすべてを神に預けています。家族を持たず、親兄弟でさえ神の物であって自分の物ではありません。
これを愚かと捉えるか、素晴らしいと捉えるかは価値観の違いであり、正解はありません。

ただ、マザー・テレサやガンジーの様に、守る物が少なければ少ない程、自分を捨ててなお本物の自分でいられる強さがあるのではないかと思います。

「あなたは何を守ろうとしているのですか? そして何があなたをそうさせていますか?」

【Vol.95号記事】 コミュニケーション

私達人間は動物以上にコミュニケーション(多くは言葉による)が不可欠な存在です。
人類学上でも、進化の過程で道具のみならず、言葉によるコミュニケーションが出来なかった種は淘汰されていった
可能性があるとも言われています。

13世紀のローマ帝国皇帝フレデリック(フリードリヒ)2世は様々な言語の人々の中で生まれました。
*18世紀プロイセン王のフリードリヒ2世ではありません。
彼は「人間は生まれながらにして言葉を身につける資質があり、子供は成長とともに
自然に言葉を覚え話す様になる」と考えていたようです。
ある日、この皇帝の命令によって下記のような恐ろしい実験が行われました。

生後間もない50人の幼児を乳母達に預けて世話をさせました。
「絶対に声をかけてはならずすべて沈黙のうちに行うこと」
「抱っこをしてあやしてもならず、人の話し声さえも幼児の耳に入れてはいけない」
というルールを定め、一方ではおっぱいを飲ませる、おむつやお風呂、寝かせるといったことは
きちんと行いました。
これは虐待ではなく、皇帝の命による実験ですので、環境も栄養もその当時としては充分保たれていた状況です。

結果は・・・幼児達は言葉を覚えるどころか、1歳を迎える事無く皆死に絶えてしまいました。

ここはひとつ感情的にならずに考えていただきたいのですが、
過去人類の歴史においてこのような実験をしなかったら分からなかった事も
あったわけで、一概にそれを悪と断定する事はできません。
この実験の善悪はともかく、この実験によって、人は生まれながらにして言葉を身につけるのではなく、
環境によってそれが育まれるという事と同時に、人間はコミュニケーション無くして生きられないことが分かりました。
また、そこに充分な愛も必要であるのは言わずもがなです。

人間にとってコミュニケーションとは生死を決定する程重要な事です。
人は誰かに言葉や気持ちをかけてもらう必要があり、また人はそれに応えることによって
人間として作り上げられていくと考えられるのではないでしょうか?

【Vol.94号記事】 杯

先日の塩に続き、今日もキーワードの解説です。
杯のキーノートは運命と恵を意味しますがそれは実に深いところから来ています。

杯は塩と同じように世界的にだいたい似たような意味を持っています。
もちろんお酒をはじめとする飲み物を注いで飲む為や分量を量る為の道具ですが、そんな杯は常に何かの運命を左右するイメージが強い様です。

たとえば日本では杯を交わすというのが「兄弟の契りを結ぶ」意味を持っていたりしますね。
そういう意味でも一緒に飲みに行くというのは親交を深める意味が強い。

また戦国時代などでは戦の前に水杯を交わしたり、杯を割ったりしました。
もう二度と会う事は無いかもしれない、命をかける為の決意の現れとして。
また結婚式では三三九度の杯で約束をかためます。

聖書によると、古来より王族などは杯に毒を盛られて暗殺される事が多かった事から、人の運命を現すという例えになりました。

イエスが最後の晩餐後、ゲッセマネで「父よ、願わくばこの杯を退けたまえ」と呟きますが、この杯の意味が後の処刑と、そこに至るまでの間、人間の浅はかさを身を以て知る悲しみを避けられない運命であることは言うまでもありません。

タロットカードで杯と言えばカップのスート。その中でもカップのエースは絵柄がとても象徴的です。
伝統的なカップのエースの絵柄は手の上に置かれた金の杯から水が溢れ出て、その上には十字の刻印がはいった聖体(イエスの体を意味するホスチア=パン)をくわえた鳩が降りて来ています。

鳩が降りているシンボルは聖霊が下る(人の体に入る)事を意味し、それは神によってもたらされる神聖なるスピリットであり人として生きる原動力とされています。鳩がくわえているホスチアはカトリックでの聖体であり、霊的糧。
そしてイエスは最後の晩餐で杯を取って葡萄酒を注ぎ、これは人々の贖罪のために私が流す契約の血であると話します。

これらの意味を総合してみると、赦しや感謝に繋がり、つまるところそれは『愛』を意味する様になります。
神の手に置かれた杯から溢れ出るのはただの水ではなく、父と子と聖霊の三位一体によってもたらされる『愛』です。
人間の究極的な本質であり、神そのものとも例えられます。

また、私達は水無くして生きられません。水は生命であり、湧き出る水はあふれでる生命力。
生きている事の豊かさを意味します。
ビバリーヒルズの石油王大豪邸(現在は公園)を訪れた時、案内してくれた人が「水は最高の贅沢」と言っていましたが、正に豊かさの象徴のようです。
豪邸であればあるほど水をふんだんに使った庭作りなのはアメリカに限った事ではありませんね。

アーサー王の聖杯伝説では聖杯(最後の晩餐で使われたものであり、イエスの流した血を受けた杯)を騎士達が必死で探します。これは騎士の美徳でありながら、実際のところ究極の愛を探し求める姿にも見えます。

つまり、杯とは運命を意味しながらも、神の恵と豊かさであり、愛、絆、分かち合い、献身をも意味します。

ちなみにカップのスートのエレメントは水ですが、カップのエースの図柄に浮かぶのは水だけでなく、聖霊という火のエレメントが隠れています。
これは単純に私の思いつきですが、火と水の交わり・・・火(カ)と水(ミ)=カミ。神=愛。

もっとも、杯にそこまでの意味を感じて使う人もいないとは思いますが・・・。

この夏、グラスに冷たい飲み物を注ぎながら、この杯の意味をちょっと感じてみてはいかがでしょうか?

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