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【Vol.90号記事】 霊と魂

前回「霊」という言葉についてお話ししました。この霊という言葉の定義は本当に難しくて
各国の文化背景によって定義の仕方はいろいろですから、1998年にWHO憲章全文を
「健康とは、身体的、精神的、社会的および霊的にダイナミックに健全な状態である」
とする提案の際、賛成22カ国、反対0カ国、棄権8カ国・・・の棄権国に日本が入ったのがよくわかります。
ここでは単純に「霊的」と書きましたが、実際各国で様々な意味と定義があって、そのどれもが充分にここでの「霊的」という意味を満たしていません。
もちろん日本語で「霊的」と訳すのが適切かどうかも難しく、結果的に日本は棄権したままです。

さて、今日は霊と魂は何が違うのか?について。

これもまた一定の定義に納めるのは非常に難しいのですが、私なりの研究と考察で以下の様になりました。
単純に解説すると、「霊は天に属し、魂は地に属す」といったかんじです。
霊と魂の違いはなんですか?と訊ねる方に、逆にどう思うか聞くと、霊は外にあるような気がするし、魂は内側にあるような気がするという答えが返ってくる事があるのですが、そんな感じです。

新約聖書はギリシャ語で書かれいて、400回近く「霊」という言葉が出てきます。
ヘブライ語の旧約聖書を含めると800回以上にも及びます。
そもそも霊という言葉は聖書が始めてそのニュアンスを言語にしたそうで、聖書独特の言葉なのだそうです。
(なので、霊と訳すのも適切かどうか微妙なのですが、他に表現のしようがないのだとか)

霊はギリシャ語でプニューマと言います。聖霊、悪霊、人間の霊も含めて同じ言葉を使っています。
神は人の中に霊を吹き込むが故に生きており、霊は天から来ているものと表現でき、人間の体は霊の住まい。
といった様に考えられます。

一方魂はギリシャ語でプシュケイ。これは魂以外に精神とも訳されています。
人間の心を表す一つの言葉です。つまり、霊と違って魂は地に属す人間(動物も含めて?)
固有のものです。

霊が天から与えられた賜物、天命を全うする為の要素であり、五感を超越した要素でもあると考えられます。
希望や愛、人生における生きる意味や意義、信頼や超自然的な恩恵への感謝など、人間が共通して持つ動機の原動力にも思えます。

魂は一人一人固有のもので、自我、私、生命体としての存在そのものに関係するといいましょうか。
実際英語にして複数形にはなりませんが、霊に比べて数えられる感じがします。

船が沈みそうな危機にある時発する「S.O.S」。これはSave Our Shipという意味以外に『Save Our Soul』
という意味があるのだそうです。 Save Our Spiritとは言いません。なぜならSpiritは救う救わないの次元には関わり無く、一人一人の固有のものではなく、なにかもっと大きなもので、天に属している永遠のもの。
魂はそうではありません。一人一人固有のもので、今生の有限のもの。
オーラで言うところの幽体がこの世に属する事柄に関わりますから、魂。
霊体があの世に属する事柄に関わりますから霊・・・と考えてもいいのかもしれません。

しかし、波と海の境目に境界線を引く事が出来ない様に、霊と魂の間に境界線を引く事が出来ません。
どちらも今生で行きている限りは「わたし」という生きた存在に不可欠だからです。
究極的なことを言ってしまえば、あなたもわたしも最終的には霊に属し、霊に生かされているのですが、
今生この物質世界で具現化を行い、気付きと学びを経る為には魂が必要だからです。

ただ、これ哲学的な仏教や神道だとどういう解釈になるのがわかりませんし、また、ユダヤ、イスラム、キリスト教における唯一神
と仏教の仏や神道の神々とは定義も立ち位置(?)も全く異なりますので同様に解釈する事はできません。

ですのであくまでも私的考察という事で書かせていただきました。
さて、次回は言葉の違いパート2で、「愛情と愛」についてお話ししますね。

【Vol.89号記事】 霊の意味

さて今日は「霊」という言葉を紐解いていきたいと思います。
レイキヒーラー養成講座ファーストでもお話ししていますが、霊の旧漢字は『靈』
パソコンですとちょっと見えにくいので解説しますと、
雨かんむりに口が三つ並んで巫という字を書きます。 これはもともと雨乞いの儀式
の様子を字にしたもので、雨は大自然の恵、口三つ並んでいるのは神が語りかけてくれる言葉=恵
あるいはそれを受け取れる様に巫女さんが祈祷している様子です。

大自然の恵と祈りが交わって呼吸(呼ぶ=祈り、吸う=恵を受け取る)となり、
解け合って一つになります。 

霊は「レイ」「タマシヒ」「ヒ」と読み方があります。 ちなみに人(ヒト)は元々
日=霊(ヒ)と処(ト)。霊のあるところ=ヒトでした。

レイと読んだ場合、これは古来から「命」を意味していて、レイ=命となります。
命は令と口が合わさったもので、神からの語りかけに対して人が祈りをとなえる
感じです。

タマシヒと読んだ場合、神からの賜物を頂くという意味があります。
タマ=賜う(タマう)、シは風を意味しており、息に関係します。
そしてヒは産霊(ムスヒ)のヒであり、力ある神の威力的なものを指しています。
呼吸を通じて神からの賜物を受け取るといった感じです。

古来より風は神の霊に例えられていて、天地を貫く神の息吹であり、それが息と繋がり、私達は呼吸を通じて
をそれを受け取る・・・つまり霊というのは神の、あるいは大自然の恵を賜るり生きる事に通じる言葉で、
どちらかというと主人公は目に見えない神の方にあります。

では英語の「spiritutal」の場合。たしかに英語のSpiritual(スピリチュアル)にも霊の意味は
ありますが、それは日本文化での捉え方とはちょっと違います。
「精神」や「心」、「気分がいい状態」「勇気がある」といった意味合いでよく使われる他は
信仰や宗教的な意味合いも多く含まれ(この場合soulも使います)、
主人公は人の心や精神にあって、それを突き動かす要素の意味がの使い方が強いと言えます。
日本語で言うところのスピリチュアルな場所(神聖な場所)を、たとえば山の場合「霊山」と言ったりしますが、
西洋ではスピリチュアルではなくセイクレッド(聖なる)と表現する事の方が多いと思います。

西洋ではキリスト教の影響によってスピリチュアルとかスピリットという言葉は比較的日常に根付いているのに対し、
日本では何か特別な事の様に感じられたり、ともすれば恐ろしいものにも捉えられがち。
聖書はもちろんの事、キリスト教の祈りの原文には霊とか霊的という言葉がたくさん出てくるのですが、
上記のような事で公的な祈りの言葉を日本語に訳す時に、霊の概念をうまく訳せなくて省かれていることもあります。
なぜなら聖書でいう「霊」を適切に表現する言葉が日本語には無いそうなんです。
厳密に言うと英語でもドイツ語でもがっちり当てはまる言葉は無いそうです・・・。

いずれにせよ、西洋と共通しているのは「目に見えない力」という点です。
物質を超えた、しかしながら存在するという要素のような。

さて、ここで問題です。よく質問されて返答に困るのですが、魂と霊の違いは何ですか?
何がどう違うのですか?  さて、どう違うのでしょう? これはなかなか説明が難しいのですが、
次回はこれについてお話ししていきますね。

【Vol.88号記事】 混乱

さて、心理学的お話の最終回は「混乱」について。
この混乱というのはそれまでお話ししてきた怒りや不安、それによっておきる身体症状から鬱状態
といった流れの最終形として考える事が出来ます。

肉体/心/魂の乖離によって、なにもかもがバラバラな感じ、日常生活における自分と内面で感じている事の
不一致などにはじまり、生きている意味を見失ったり、何の為に生きているのか分からなくなってしまう状態です。
自分自身の存在価値を見失ってしまうのです。

人間誰しも、突き詰めれば悔いの無い人生を送りたいと思うものです。
多少のスリルも、山あり谷ありもなければ、平坦で面白みの無い生活になってしまいますから
万事が平穏無事だらけでいいわけでもありません。

ただ、日々がなんとなく統合されてないと感じ、充実感を失っていくと、人間は自信喪失はもとより
活き活きとした感覚も失われ、外面だけでなく内面もダラダラとした感じになります。
一方で、そんな自分に対して嫌悪感や罪悪感も生まれてきます。
いわゆるマンネリ化した状態になると生き甲斐が見失われ、自分の価値が分からなくなってしまいます。

自己価値、自分の存在価値とは人が決めるものではなく、自分が自分の何に価値を置くか。
また何に価値を感じるかです。また、この自己価値の源泉は頭ではなく、本能的なものです。
つまり誰しもが「自分は某かに価値のある人間である」「生きるに値する存在である」という信号を生まれ持っているのです。
一方で、自己価値の崩壊は感情と思考によって発生し、もっと深い部分にある本能的な価値観の源泉を見えなくしてしまいます。

「悔いの無い人生を送りなさい」という信号は一人一人の核からくる必要性で、生まれ持った要求ですから消す事は出来ません。
これは後付けの欲望とは違います。本能的な核では「肉体/心/魂が統合された状態で生きたい」と望んでいます。
これは感情や思考で見えなくする事は可能ですが、無くす事は出来ないものです。

思考で認識している自己価値は、本能的な核からくる純然たる自己価値とは違ってもっと具体性があります。
しかしこの思考で認識している自己価値は、よくよく考えると、思い込みであったり思い違いであったり、周囲や社会が「こうあるべき」と決めつけたお仕着せの価値観かもしれません。

あるいは自分が「こうありたい」という欲求が高すぎるのかもしれません。
もちろん、社会の中における礼儀やルール、倫理観といった基本姿勢は大切です。しかし時には例外を許す事も大切です。
「こうありたい」という欲求は自己啓発を促し自己価値を高めるのに必要です。
しかしこれもまた、例外や現実と理想のギャップを冷静に見つめる心を養わなければならないでしょう。

またこれと同時に社会的にも、一人一人が本能的にもっている価値観、個性を否定したり、一般論と違うからといって害の様に教育するのも考えものです。
これらによって子供のうちから自己価値を否定されたり、お仕着せの価値観で生きるよう要求されると、大人になってから自己探求、自己啓発、自立の足を引っ張る事になりかねません。
自分にはどんな個性があって、どんな事が出来て、何を生き甲斐と感じるのか・・・分からなくなってしまいます。

ヒーリングやカウンセリングでは自分と向かい合うようにサポートします。できるのはサポート、手助けです。
悔いの無い人生は一人一人全部異なります。
だからこそ自分で気付き、学び、悟り、自分の在り様を見つけ出していかなければならないからです。

しかし混乱に至っている状況ではなかなか難しい。
何の為に生きたいのかという考えが明確になりにくいでしょう。
それでも結局は自分と向かい合って、ネガティヴな状態と対決するしかありません。

自分の認めたくないネガティヴな傾向をまずは知る事。順を追って自分の内面を観察してみる事です。
不安〜怒り〜身体の不調〜鬱状態と順を追って症状が進展します。
それでは何に対して不安なのか?と一番最初の不安に戻って一つ一つ先にすすめていきましょう。