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【Vol.87号記事】 鬱

『うつ』という言葉が一般に知られるようになってしばらく経ちました。ここ10年ほどでしょうか? 
昔は「うつ」という言葉はあってもなかなか理解してもらえる事も無く非常に苦しい思いをされた方も少なくないと思います。

「気持ちがたるんでいるから」「よくあること」「甘えてる」など言われる事はしょっちゅうで、決まり事の様に最後には「頑張りなさい」と締めくくられてもっと苦しくなっていく事しばしば。

笑う事も泣く事もできなくなって、無感情、無表情になり、ただ目の前の事をやるしかない中で時間が過ぎていくのを耐える日々。

生きている事に実感が湧かなくなって、自分の存在価値を見失い、空気になりたいと思うようにもなります。誰も信じられないし、周りの人々がみんな敵にも思えてくる。
言葉を発する事はもちろん、考える事もできなくなっていきます。

心療内科などありませんでしたので、心の病=精神病。
世間一般では精神病=頭のおかしい人。社会から淘汰されるべき恥ずかしい存在のようなイメージだったと思いますから当然家族にそのような症状が出ていれば、なんとか隠したいと思う人達も多かったでしょう。

私が鬱病を煩って薬を飲み始めたのは高校二年でした。
上記のような事がずっと続いていました。
表面的な受け答えは出来ますが、心のある会話はできませんでした。
こういった症状を理解できない両親に話しかけられて答えられない(口が開かない)でいて、
怒鳴られて頭を殴られた末、かかりつけの医者の元に駆け込んだ事があります。
家庭、学校のみならず社会的無理解もあって結果的に自殺未遂という道を辿っていく事になるのですが、
もし今の様にあの頃世間にもう少し「うつ」に対して理解があったら状況は変わっていたと思います。

しかし、世間に「うつ」という言葉が広まるに連れて、その認識の深さはまちまちで、実際「うつ」でもないのにそう思い込んでしまったり、逃げ口実になったりという、自己啓発の足を引っ張る本当の意味での甘え精神を生みやすくなったり、
非常に軽度のものであっても「うつ」と診断される事でどんどん深みにはまっていってしまう人達も増えました。

さて、前回まで不安と怒りについてお話ししていましたが、不安と怒りを放置していくとそれは身体症状になって現れます。
ようはストレスですから、実のところ鬱症状(一過性のものは別として)に至る前に大なり小なりこの身体症状が起きているでしょう。

身体が重い、胃腸の調子や食欲が変など。これは自律神経からのシグナルで、これによって実際に肉体労働したわけでもないのに非常に生命エネルギーを消耗します。

前回の記事に書いた様に、怒りは生命力を司る第一チャクラに関係します。また不安は第六チャクラに関係します。
この二つのエネルギーセンターの不均衡は自律神経失調症を引き起こしやすい一つの要因であると考えられます。
放置する事によって鬱症状がでてさらに悪化の一途をたどりやすいでしょう。

鬱は主に感情のアンバランスから生じやすいのですが、それは人間がそれぞれ独特の「幸せの定義」があって
それ自体は無意識的な、はっきりと言葉に表記できないようなものであっても、生まれて今に至るまでにある種の幸福のイメージというものができています。

鬱になるのはその裏返しのようなもので、「幸せの定義」に反する「不幸の定義」が引き金であると考えられます。
不安や怒りの引き金と同じ様に、その人一人一人のそれまでの生涯で培われた個人的な「原型」のフィルター
が現実と理想のギャップとあいまってなにがしか問題に繋がっています。

現実と理想とは書きましたが、その中には「〜しなければならない」「こうでなければならない」といった外部からの押しつけお仕着せや、自分にそう思い込ませている固定観念も含まれます。

鬱になってくると心はもちろん思考の面でも選択肢を考える余地が狭まりますから尚更と言えます。

そもそも感情とは本能だけでなく心理においても幸福を感じる人間特有の能力。
鬱になりやすい人ほど自分の感情を抉り苦しみます。
しかしそれは一方で、人を幸せに導ける力を秘めていると考える事も出来ませんか?
自分の感情を抉り苦しむそれを乗り越えた時、幸せに向かう道しるべを知り、
それはやがて同じ様に苦しむ人達のサポートへと繋げていけるでしょう。

まずは鬱に至らせる自己の中の現実と理想のギャップ、そして固定観念や不幸の定義を少しずつ探し当て、認識して開放するプロセスが重要です。自分に取って何が怒りや不安で、何が癒しで愛と感じられるのか?

それははるか幼少時代にまで遡る必要があるでしょう。しかしこれらの事を言語化していくことで焦点がはっきりしやすくなります。

鬱を放置するとやがてこのネガティヴ状態は人生における自分そのものの存在価値を見失う原因である混乱を引き起こします。ということで次回はネガティヴ状態の最終回:混乱についてです。

ここのところ心理学的なお話が続きましたので、次回でこの手のお話はいったん終わり、また違うテーマに戻りますね。

【Vol.86号記事】 不安と怒り2

年を重ねるにつれ、人生経験が豊富になっていろいろな体験を経ますから、
「昔に比べて丸くなったね」と言われた経験をお持ちの方もいると思います。
それぞれがその人生の中で大なり小なり自分という存在と向かい合い、対決し、
いくつも山を越えてきたからこそのものです。このような過程で解決されていくネガティヴ状態。
その中で今日は怒りについてのお話です。

怒りと聞くとやはりネガティヴなイメージを抱かれる方の方が多いかもしれませんが、
実のところこれは前回の不安と同じく本来自然な感情です。
怒りを覚えるとまず身体的にどうなるかというと、アドレナリンが放出されます。
これは恐怖と同じく生命維持本能からくるシステマティックな出来事ですから、そういう意味では
怒り自体は生き残る為のある種の形であり、生物である以上自然な事です。

と、そこまではいいのですが、実のところ動物の感じる怒りと人間の感じる怒りには
若干違いがあると言えます。
なぜなら人間の怒りとは本能的である以上に感情的だからです。
これは理想と現実のギャップから起きやすく、また理想(あるいは願望)が
高ければ高い程現実とのギャップが生じて怒りを覚えます。人に対してだけでなく、自分にも。
この点に置いては不安と同じ様に解釈できます。しかし不安の多くが自分の中でおきるのに対し、
怒りは周囲にも影響します。つまり人間関係です。
しかし一方で理想があるが故に怒りがあるのなら、理想に近づく為の大切な原動力である事も
忘れてはなりません。

ただし、怒りは不安以上に身体症状に結びつきやすい感情と言えます。理由の一つとして
怒りの多くはやはり「怒りは良くない事だ」ということから内に抑圧する傾向が高いからと考えられます。
中には怒りの感情を押さえ込んでいるのを認識しておらず、ひどい鬱になる事もあります。
溜めに溜め込んでドーン!と爆発すると突発的にとんでもない衝動に出てしまう事も。
ここまで来ると、かなりのネガティヴ感情であると言わざる得ません。

陰陽五行で怒りの感情は「木」の行にあたり、怒りの感情を抱えている人は声のトーンが
叫んで聞こえるといいます。
五行のはじめにあたり、人間の生命全体としての機能を保つ肝経の行ですので、
虚弱体質になりやすいと考えられます。
隣にくる行が心経のため、胸部萎縮や交感神経の亢進などから自律神経失調、パニック障害などが起きやすいとも。

チャクラで言えば、不安が第六チャクラで起こりやすいのに対し、怒りは第一チャクラから発生しやすく、
その結果無意識的にエネルギーを枯渇しやすいため身体症状に発展する可能性の高いパターンと言えます。

どのような環境でどのように生きてきたかの中で一人一人の感情パターンは違います。
そしてそれぞれ何をどんな風に理想とするのも違うでしょう。怒りと一言で片付けても
実はその種類は無数に存在します。

否定的な解釈をしてしまうと溜め込む原因になりますから、まずは焦らずに怒っている事を認識したり、
あるいは受け止めてみる事です。そこから、自分が何に、どんな風に怒りを感じているのか?自分の心に問いかけて
みるといいでしょう。 理想のハードルを下げることも一理あります。
どんな怒りがあるのか、あるいは何を感じているのかノートにずらっと書き出すのもいいでしょうし、
とりあえず気の置けない(気を使わなくてもすむ)友人や受容と共感の前提に立って自立を促す
カウンセラーやセラピストに話してみる事です。支離滅裂でもいいのです。
まずは話してみる。するとだんだん何を訴えたいのか?
何に怒りを感じているのかが分かってきます。

たとえば、経済不況に対して怒りを覚えているとして、今すぐに自分に何が出来るでしょう?
明日にでも政治家になって日本経済を一変させられるでしょうか?ちょっと難しいですよね。
しかし、そこであきらめずに今自分が出来うる何かを実行する事はできます。
何もしないで怒りを溜め込んで文句ばかり言っているよりは遥かに健全です。

さて、次回は今までお話ししてきた不安と怒りの混在から発生しやすい「鬱」についてです。

【Vol.85号記事】 不安と怒り1

ネガティヴな感情というのは誰しもがもっているもので、それは一人一人がそれまでどのように
生きて、どんな経験をしてきたかで感じ方のパターンが全く違います。
国や人種、文化的背景の違いといったものでも感じ方は様々。
日本人だったらこう考えるという事が、イギリス人では通用しなかったり。はたまたこちらが
予想もつかない反応をする事もあります。

人は何かと自分を他者に投影しがちで、自分がこう思っているからこの人もそう思うだろう
という前提で物事をすすめたりします。そこに食い違いや誤解が生まれやすく、自分が思っている程
相手は何も感じていなかったり、自分が良いと思っていても、相手に取っては嫌な感じに受け取られていたりもします。
感情の感じ方はまるで植物の根っこのように深層でたくさんの枝分かれをしていて、その先には
様々なその人にしか分からない体験が含まれています。
ある出来事に対して、それと似たような経験をその感情の根っこがまるで神経の様に働き
ある種のパターンを経て感情として認識されていきます。その経路は無限です。

このような過程で感じるネガティヴ感情はまず「不安」から始まる事がほとんどではないかと思います。
そしてこれはストレスの始まりでもあります。

そもそも一寸先は闇。目に見えている世界に永遠はありません。
極端な話、この地球でさえいずれ無くなりますし、形ある物はいつかは壊れる。
目に見える中に「未来永劫安定」はあり得ません。人間一人とっても有限の存在であり、その中で
病気にもなるし、なにかのひょうしに突然命を落とすかもしれない。
つまり、すべてにおいて不安定がこの目に見える世界の摂理です。
なので不安は感じて当然です。

マザー・テレサは神への愛を渇望するいっぽうで、常に「心の闇」を感じていて、それは生涯続いたそうです。
マザーが言う「心の闇」とは神に見放され、拒絶されたと感じる深い不安感の事です。
しかしこれがマザーを強くし、神との一致へと導かれたと言われています。

人間は理想を描きます。理想と現実のギャップから不安は生まれます。
「こうなりたい」「こうしてほしい」「こうあるべきだ」・・・
自分に対しても人に対しても、人生の中で潜在意識に刷り込まれていった「感じ方のパターン」から
理想を作り上げてしまうと、現実とのギャップから「こんなはずでは・・・」と頭を抱える
事にもなります。

ただし、逆に不安があるからこそ、理想が生まれるという逆説的見方もあるわけです。
では不安を乗り越えて理想を現実にすればいい。人間にはその力があります。
ストレスも時には向上心を呼び覚ます良い材料。そうやって進化してきたのが人間です。

不安という闇の中で光を探してもがくうちに、光の見つけ方を習得するでしょう。
はじめから光を見ていて闇を知らなければ、光の見つけ方を知る事は出来ません。
何事も平穏無事はいい事ですが、逆境が無ければ成長しないのもたしかです。
しかしながら、乗り越えられる段階を通り越して身体症状に至ってはいけません。

身体症状に出る前に、自分がどんな不安を抱いているのか分析してみると、案外取るに足りない事で不安に
なっているかもしれませんし、平穏な心を取り戻すきっかけが潜んでいるかもしれません。
現実を受け入れることも選択肢の一つですし、とりあえず理想を下げてみる事で時間はかかっても
最終的には理想に、あるいはそれ以上に成長することもできるでしょう。

不安という感情があるからこそ、私達は向上していけます。
不安という感情があるからこそ、私達は強くなれます。
数々の不安という感情を乗り越えていくからこそ、深い愛を育んでいく事ができるでしょう。

さて、長くなりましたので人間関係の問題に拍車をかけてしまう「怒り」は次回に・・・