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【Vol.84号記事】 自己と自我

自己と自我・・・別の言い方をすると「大我(真我)と小我」、本質的自己と人生の中で作られた自分。
このように分ける事ができます。

私達はこの世に生まれて数ヶ月ですでに偽りの自己が確立され始めます。
それは生き抜いていく為に必然的に身に付く物でもあり、それ単体では生きていく為に必要な
ものであって、欲が入っていない限り害はありません。
私達は本能的に自分が安全であるかそうでないかを直感的に感じ取る能力を持っていますので
それによって初期の自我は生き抜く為に作られていきます。
しかしこれがやがて人生を歩んでいるうちに、成育史の中で培われた価値観と相まって
偽りの自己を築き上げ、これがここでお話しする自我となっていきます。

しかしやがて自分を価値のある物としている何かのために、様々な成育史のなかで自我を構築していきます。
成功、名声、信頼を得る為に、自分が自分にだけ貢献できる時や他の人が自分に貢献してくれる時にだけ
価値を感じる様になると、やがて作り上げられた自己像を身に纏うようになります。
自我とはそれそのものに要求をもっていて、それを中心として作り上げられた偽りの自分です。

幼少期に人を笑わせている時にだけ褒められたという経験がある人の多くが、
大人になってもおちゃらけたり自己卑下することで人を笑わせることに必死になってしまうことがあります。
そうしている自分に深層心理では虚しさや憤りを感じているにもかかわらず。

自我の強い人はあからさまに強情で、言動も行動も自己中心的であれば分かりやすいのですが、
実は上記の様に一見自己中心的にも見えないようなレベルでも自我がベースとなっています。
誰でも自我を築き上げて、自己と自我を同一視していると言えるでしょう。
認められたい、成功したい、評判を高めたい・・・このような自我の欲求が実は無意識のうちに
他人へと何かしらの要求(コントロール)にも繋がっていきます。

上記の例でいえば、周りの人に笑ってもらう事で自己価値が満足させられるという刷り込み
があった人が、周りの人に笑ってもらえないとなるとどうなるでしょう?自分は価値の無い人間だと
自己憐憫に浸る事もあるでしょうし、笑ってくれない人々に敵意や怒りを感じるかもしれません。
実はそんな事をしている自分自身に嫌気がさしている・・・これが本音でありながら、
その本音を表に出さない、ありのままの自分を表に出さず偽りの自分を演じる事で
受け入れてもらおうとしているわけですから真実にはなりません。
結果自己を偽り、一方で周囲の人々をコントロールしている事になるのです。

人間である以上、受け入れられたい、認めてもらいたい、自分がそれなりに立派な人だと感じたい・・・
大なり小なり感じるでしょう。同意をもたらしたり、関心を惹き付ける物に依存する事もあるでしょう。
生きている間に私達は気分が良くなるもの、不安を満足させてくれるものにベースを置くものです。
それが自我を作り上げ、さらにそれ以上の存在になる為に、期待を満たす為に
もっと満足する為にと望む自己像「〜でなければならない」という自分自身を作り、それを維持する為に
自我を上塗りして本当の自己が見えなくなっていきます。
作り上げられた思考パターン、行動パターン、感情パターンの中で、生まれながらに持っている
自己の本質は深いところで「そうじゃないよ〜」と訴えているので、どんなに自我の上塗りをしても
普遍的な平和や安心を得る事は出来ません。そればかりか、ありのままの自分を出せない人間関係、
自分の限界を遥かに超えた周囲からの要求や期待に辟易する一方です。
やがて自分が何者になろうとしているのか?自分は何者なのか?

会社の社長が大我のためでなく、自我のために会社運営をしていれば、当然その自我に振り回されるのは社員です。
様々なところで問題が山積していくでしょう。

前回「一霊四魂」のお話をしましたが、『一霊=直霊(なおひ)』が自己の本質であれば、
自我によって振り回される事で「四魂」=『徳の種』を良い形でコントロールしていくことはできません。
成育史の中で作り上げられていった思考パターン、行動パターン、感情パターンに気付く事は、作り上げた
自我を知る事であり、自我を認識して脇に追いやっていく事で自己の本質に近づき、徳の種を成長させて
いく事ができるのではないでしょうか?

次回は今回の自我によって起きる「ネガティヴ状態:不安と怒り」についてのお話です。

【Vol.83号記事】 一霊四魂

前回「いのちのありかた」について述べましたが、いきなり大きなビジョンで「いのち」や「無条件の愛」
といったものを見ていくには個々の霊的成長に目を向ける必要があるかもしれません。
霊的成長というと堅苦しく聞こえますが、私達一人一人が本来備わっているもの=自己の本質を受け止めて理解していく為の努力のようなものです。別の言い方をすると、ちょっと古くさくなりますが「徳を積む」とか「徳を育む」、あるいは「自分を磨く」と表現するといいでしょう。
『徳』を辞書で引くと【道を悟った立派な行為。良い行いをする性格。身に付いた品性。神の恵みや加護。人を感化する人格の力】
とあります。

さて、幕末から明治にかけて成立した「古神道」の考えに『一霊四魂』という考えがあります。
孟子の四徳(仁、義、礼、智)に良く似た概念です。
一霊とは天と繋がる霊の事で『直霊(なおひ)』と言います。
四魂は『勇、親、愛、智』からなるもので、これら四魂を一霊が統括してコントロールし、
心の構造を表しているという考え方が『一霊四魂』です。

勇=達成、具現化、行動、忍耐、前進
親=調和、秩序、公平、公正、交わり、共鳴
愛=慈しみ、育む、絆、思いやり、尽くす
智=真理探求、分析、洞察、追求、悟る、

この4つの働きを直霊がフィードバックしてバランスを取り、『良心』としての働きをする様に
直霊は「省みる(内省/内観)」の機能を持っています。

一霊(直霊)は別の言い方をすると、言葉では表現が難しいまるでエネルギー体そのものの様に
個々に生まれながらにして備わっている核のようなもので、自己の本質と言えるでしょう。
輪廻転生で考えれば、生まれる前あの世で作ってきた来世の計画書も含まれるかもしれません。

一方、四魂は生まれつき備わってはいるものの、成長によって育まれる徳であると解釈できます。
つまり四魂自体は『徳の種』みたいなものです。
本質的自己は四魂を省みて、これらを通して表現されますが、
徳の育み方次第で表現のされ方は善くも悪くもなってしまうわけです。

四魂の有り様は一人一人の成育、人生経験によって構築されていきますから、4つのどれもが均一というわけではなく、
強さも深さも異なり、これが表現される段階で個性になっています。

これは元々古神道の考えから来ているものに私の解釈をやや含ませて紹介しています。
とりあえずここでは神云々は置いておいて、霊的成長を現実的な心理成長としてお話しさせていただくと・・・
つまり、いかに徳を育んでいくかで揺るぎない巌のごとき核を理解していけるでしょう・・・と言いたいわけです。

というわけで、これからしばらくは現実的に霊的成長を促す徳の育み方に焦点をあてていきたいと思います。
その取っ掛かりとして、次回は「自己と自我」についてのお話です。

【Vol.82号記事】 スピリチュアルについて

スピリチュアルという言葉が氾濫する時代になりました。
私はスピリチュアルブームと言われる様になった頃から、それに対して首を傾げていた一人です。
愛と同じ様に、やがて使い古されて、本来の純粋な意味が見えなくなってくる事を懸念しているからです。

スピリチュアルという言葉には決まった定義は無いと思います。
しかし愛と同じ様に本来は非常に奥深い意味がそこにはあると思います。
私はスクールやサロンで皆さんに「スピリチュアルとは生き死に関わる事です」と言う事があります。
もっと簡潔に表現するのなら、それは『身体、心、魂すべてを包括した「いのち」』そのものに関わる事だと考えているからです。

かつてどんな国でも『いのち』が軽んじられていた時代があります。
ヨーロッパではフランス革命が起きるまで、君主国家が当たり前だった時代に庶民に人権らしい人権などありませんでした。
後に文明の発展を迎えても、奴隷制度や人種差別は後を絶ちませんでした。
そして戦争時代・・・言わずもがなです。
これは日本も同様で、武家社会の時代に無礼討がありました(ただし、切り捨て後に理無礼行為があったかどうか、とそれに対する無礼討が正当行為であったか奉行所で調査されたそうです)。
個人レベルで人権やいのちの重さを感じていた人達はいたでしょうが、社会全体はそうではありませんでした。
ようやく世界で人権が大きく叫ばれる様になったのは1960年代以降です。そして現代になってもなお、
所々で同じ国民でありながら人種差別が原因で暴動や犯罪が起きています。

幸い現代の日本では欧米で見られるような激しい人種差別などはありません。
しかしながら、今日本が直面しているのは経済的不況ももちろんですが、
それ以前に「豊かな国になったが故の心の戦争時代」に入っています。
食料が不足していた時代は、それでも家庭内での、あるいは共同体内での強い絆、愛、協力がありました。
現代は食料事情が豊かになった反面、家庭や共同体でのコミュニケーションが不足し、命を軽んじる人々が増えています。
だからこそ、スピリチュアルブームなるものが必然的に起きたのかもしれません。
しかし蓋を開けてみれば、メディアが報じるスピリチュアルは『いのちのありかた』とはだいぶかけ離れたものに見えてきます。

動物は恐怖を感じると攻撃的になります。動物は餌を奪い合う為に本能的に戦いますが、人間のように戦争はしません。
人間の場合、怖れに裏付けられた多くの感情(嫉妬、競争心、独占欲、ねたみ、恨み、執着、被害者意識など)と、
実に高度に発達した脳を使って非常に複雑に攻撃し、残酷になる事が出来ます。その矛先を他者のみならず
自分にさえ向ける事もできるのです。
その一方で人間はこの驚くべき可能性を秘めた脳(理性)と豊かな感情によって、
共感、共鳴、和解、平和を築く事も出来ます。つまり、いのちを助けようと思えばそれも可能でありながら、
一方でそれを脅かす事も出来るわけです。

そして私達は時間の中を生きて、自分の可能性の実現のために選択し、
試行錯誤ししながら自分自身の生き方をそのつど決められる権利を持っています。
少なくとも私達日本人はそうだと思います。
今、裁判員制度が施行された事でよりいっそう『いのち』について考えなければならない時が来ています。
高齢化/少子化社会、ターミネルケアの重要性、社会の多くの側面で『かけがえのないいのち』について
問われる時代になってきています。
私達が『いのち』を考える事は、一人一人の『いのち』のみならず、『社会のいのち』にも関係する事で、
それは世界全体、地球全体においても言える事です。世界は平和に向かっているのでしょうか?
それとも破滅に向かっているのでしょうか?これもまた私達の選択によるものです。

『いのち』の在り方、それを語らずしてスピリチュアルとは言い難い。これは一過性のブームとして軽々しく扱うものではなく、生きている私達が生涯かけて取り組まなければならない『いのち』に関わる事だと私は思うのです。