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【Vol.81号記事】 スピリチュアルカウンセラー?

近年『スピリチュアルカウンセラー』と名乗る方が増えていますね。
私がこの仕事を始めた頃は、このような肩書き(?)は見られなかったと思います。

気をつけたいのが『占い(占術鑑定)』と『カウンセリング』は違うということです。
鑑定の仕方によってはカウンセリングと似たところはありますが、占いで許される事でも
カウンセリングでは許されない事があります。その逆もあるでしょう。
アメリカで何度かこのような方にカウンセリングやリーディングを受けましたが、
たとえネガティヴな事であれ、愛を持って接してくれます。それが白人だろうと
ネイティヴ・アメリカンであろうと。まずはAll Welcomeです。

先日、近頃有名なあるスピリチュアルカウンセラーを名乗る方に会いました。
その方の本業はミュージシャンですが、占いがよく当たるという噂を聞いて伺ったのです。
年明けから今後の仕事の事で大きな転機になる出来事があったため
尋ねてみようと思ったのです。本当にたまたま、お茶している時に噂を耳にしました。
大切な先生が亡くなったばかりで打ちひしがれていた時で、そんな時にあって、
これも何かの縁かな?と軽い気持ちだったのですが、行ってみて・・・酷い。

こちらが何も話していないのに色々言い当てるというのは、古くは霊媒師をはじめとして
ある事ですが、言い当てるのではなく、ありもしない事を取り立てて「責める」。
せめて尋ねた理由や相談内容を聞いてからならいいのですが、椅子に座ってから
有無も言わせずにです。

実はそれには伏線があって、部屋に入る前にアシスタントの方がオーラ写真を撮ってくれました。
「以前いつ頃撮られました?」と尋ねられたので、正直に「実は仕事でこの機器を使ってるので、昨日撮りました」と答えたんです。
というのも、当店で使っているオーラ機器の調整で確かに前日に撮ったのです。
すると、『オーラ系専門家の方』と思われたのか、機器の取り扱いに慣れていないとおっしゃる
アシスタントの方が、機器に出てくる表示内容についていろいろ訊ねてきたのです。
違うメーカーのものですが、表示内容はほぼ同じものなので、私がリーディングのために
教わった事を元にお答えしました。

・・・これが悪かったんですかね。情報は別室にいるスピリチュアルカウンセラーの元に
行った様です。同業者と思われたのか、偵察に来たと思われたのか分かりませんが、
頭ごなしに『人格否定』から始まったのでびっくりです。こちらが口を開こうものなら「黙れ」と。
これでは傾聴を重んじるカウンセラーの風上にも置けません。

私はただ時が経つのを待ちました。その方の攻撃的なオーラ(?)に圧倒されて、寒気がしてきました。
心の中で天使祝詞(聖母マリアの祈り)を唱え、軽々しくこういったものに頼ろうとした事に許しを
乞いました。自業自得ですし、逃げる理由もありません、最後まで様子を見ようと思いました。

やがて、仕事の話になって「アロマセラピーの施術をしている」と言った途端、彼の態度が急に態度が変わりました。
同業者じゃないと分かったんですね。しかしもう私の方から何かを尋ねようという気持ちはありませんでした。
そして、なぜここに来たのかの理由を尋ねられたので、たまたまお茶をしている時に後ろに座っていた
女の子達が噂話しているのを聞いてネットで調べた・・・と答えました。
ここでさらに態度ががらっと温和に変化して。
純粋な動機であった事をやっと分かってもらえたんでしょうか。

「毎日30人以上相手にして大変なんだ。予約日以外は芸能の仕事だしね」と言う彼は
自己顕示欲が強いとは思いますが本当は温和で優しい方だと思います。 
私が帰る時に彼がこう尋ねました。「また会う事はありますか?」 つまり、また私が彼の元を訪ねるかどうかという問いです。
分かりませんが、無いとは言い切れません。
本当は心根の良い方ですし、今回を振り返るに、実は純粋で臆病な人なのかもしれません。

私は彼の問いに「たぶん」と答えました。ひょっとしたら、何かの拍子に音楽の方で会うかもしれないですし。
すると彼は私の元へやってきて、抱きしめたいと言うのです。
今更とは思いましたが、ギスギスしたまま終わらなくて何よりでした。

しかし、占い師ならばまだしも、カウンセラーと名乗るのはいかがなものでしょう。
「私もOK。あなたもOK」の精神はどこへいってしまったのでしょう?
どうか、それがスピリチュアルだろうがなんであろうが、カウンセラーと名乗る以上は
「どんな相手であれ、まず受け入れる」を忘れてはならないと思います。

【Vol.80号記事】 経験とは

私は講座などでよく「沢山の経験をしましょう。人間は失敗しなければ分からない事が多い。
その失敗を経て、何が意志なのか、何がエゴなのか?学んでいきます」
と話します。では経験とはいったい何なのでしょう?
普段から使っている言葉を改めて見直すことで、
経験という言葉の意味を学ぶという経験をしました(笑)

「経験」とは?辞書でひくと色々と出てきます。そこで不思議に思ったのが、
「体験」とどこが違うのか? 単純に英単語でいうとexperienceで共通しています。
手元の古い広辞苑を見ると、体験には数行の解釈であるのに対し、経験とひくと
けっこう長く解説があります。
つまり、体験がなにかお試し的な感じ。「体験コース」とかありますよね。
それに対し、経験はもっとしっかりしたもので、単純な事ではなく、
文字通り何かを経て獲得する感じです。

そういえば、「経験を積む」とは言いますが、「体験を積む」とは言いませんよね?

広辞苑にある哲学的な表現ですと、
『感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活動までを含む体験の自覚されたもの』
とまぁ小難しい文章がみつかりました。

「体験」は実際に見たり聞いたり、行ってみる事ですが、「経験」はその体験から何を感じ、何を思ったか
という咀嚼を経るものです。人間生きている限り、色々な体験をするのは重要です。
生きていく刺激、新しい発見、様々な可能性がそこにあります。
しかし体験だけでは成長に結びつくかというとそれは微妙・・・。
そして体験がいくら多くても、それで優れているとは言い難いです。
体験が自動的に経験になるわけでは無いからです。

体験の後、それが自分に取ってどんな感触だったのか?どんな気持ちだったか?何を感じ
何を思ったか? 振り返ること。そしてそれが自分の人生にとって良く働いたのであれば
それは良い経験となっていくでしょう。

食べ物はしっかり噛むことで栄養の吸収がよくなります。よく噛まなかったら胃腸を壊す
ことだってあります。「経験」も同じ事ではないでしょうか?
「体験」から何かを学ぶ、理解と納得を経る事で身に付く→「経験」になるわけです。
しかしながら、ただ一回二回振り返ってみただけで本当の意味で経験になったかどうか
それは分かりません。

体験を通して一度は「ああ、そうだな〜」と納得した事があったとしても、その後の人生で
過去の体験に通じる新しい体験があった時、「あの時納得してたと思っていたけど、違ったかも?」
と感じるようになるかもしれません。そのような過程を経て、私達は成長していきます。
スピリチュアリティがなかなか簡単な言葉で表現できないのは、それが様々な体験を経て学び、理解し、
そしてまたその経験が深ければ深い程、簡単な言葉、簡単な動作で表す事ができないからです。

【Vol.79号記事】 無理解による誤解

無理解というのは、無知や不勉強、あるいは無関心が招く誤解のことです。
誤解というのはよくあることで、それは元々が善意であったり、他心は無かったり
するのですが、往々にして誤解された当人は感情的になってしまったり、苦痛を覚えたり、
あるいは自分に対する敵意のように受け取ってしまう事もしばしば。
それによって、図らずも人間関係がややこしくなってしまうことがあります。
残念ながら、一つの言葉を取っても、それに対しての印象や考え方が全ての人に共通している
とは限りません。それぞれ歩んで来た道、経験して来た事柄が違うのですから、良い意味で言ったつもりが
相手にとっては悪い意味に取られてしまう事があるのです。

若気の至りという言葉があります。これは自分の力を過信したり、後先を考える知恵が無い為に
失敗したりする事。いやはや私もかなりあります。中二病どころの話じゃありませんよ(笑)
目も耳も覆いたくなるような、穴があったら入りたいような事は山ほどあります。
しかしながら、若い時の失敗とは、その後の生き方によって人生の財産になる事もあると思います。
いや、当時(時代も色々ですが)ご迷惑をおかけした家族や友人達には本当に申し訳ないですけれど・・・。

そして、人は人生において失敗反省を繰り返して叡智を築いていきます。
と同時に、ある時期、ある年齢に達しなければ分からない事も沢山あります。
したがって、無理解が悪いのではありません。
しかし無関心はよくない。
無理解であっても歩み寄りの心、理解しようとする努力は忘れてはいけません。

新約聖書「コリントの信徒への手紙1」(13章1節)にはこういう記載があります。
『たとえ人々の異言、天使達の異言を語ろうとも、愛が無ければ、私は騒がしい銅鑼、やかましいシンバル』
「どんな霊的言葉も、どんな知恵や巧みな言葉も、愛が無ければ人を救う言葉にはならない。
それは無益でやかましいだけだ。愛が無ければ共感にも同調にも至らない」といった意味です。
またこの続きはこうです。
『たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ山を動かす程の完全な信仰を持っていようとも、愛が無ければ無に等しい』(13章2節)

つまらない例ですが、かつて私がレコード会社に勤めていたときの話を一つ。
ローリング・ストーンズが大好きな同僚がキース・リチャーズのソロアルバムをかけていました。
私は当時アルバムの評論の仕事もしていたのですが、別に評論するつもりもなく、彼に
「キースのギターはBadだねー」と言ったのでした。
ここでのBadとは悪いという意味ではなく、「かっこいい」とか「最高」という意味だったのですが、
彼は突然私の頭をボカッ!と殴りました。 
彼にはBad=悪い、酷い・・・という意味になってしまったのです。
まぁ普通に考えるとそうなんですよね。ここは日本ですから。 
*当時Bad=最高というスラングはマイケル・ジャクソンの影響でしばらく使われていたもので、
現在はそのような使い方をする人はあまりいないと思います。

後に言葉の取り違えであったと分かったわけですが、彼は「それどういう意味?」と尋ねもせず、
いきなりぶってしまった手前居心地が悪くなってしまったわけです。彼はロックの王様としてキースを崇めてましたし、
私は彼の大嫌いなハードロック/ヘヴィメタルの担当者でしたから、余計にややこしい。
あの時は女に手を挙げるなんて何事!?と私も感情爆発させて終わってしまったのでした。
当時は怒らせると誰も手がつけられ無い暴れん坊でしたので、後は野となれ山となれ。

男が突然女を殴るなんて言語道断だったわけですが、
打たれた私も、Badの意味が分かる相手かどうか知りもせずに言ってしまった事を恥じなければなりません。
彼が心からキースを敬愛している事をもっと尊重すべきであったでしょう。
彼がハードロック/ヘヴィメタルを嫌う程、私はローリング・ストーンズが嫌いだったわけでもありません。
しかし、ろくに聞き込んでもおらず、その良さもきちんと理解してはいませんでしたから、
彼にとっては未熟な感覚で評論するような事を軽々しく言ってほしくもなかったでしょう。
もちろん評論するつもりも無かったのですが、立場上そのように取られてもおかしくなかったわけです。
お互い感情に振り回され、心を失い、歩み寄りの配慮を怠った結果です。

聖書の話の次に私のつまらない話を出してしまってすみません。
日常での言葉の行き違い。よくある事ですが、時にそれはトラブルのもとであったり、相手を深く傷つけて
しまうことにもなります。
無理解による誤解は誠心誠意心を込めて誤解を解き、歩み寄ろうとする心が大切です。