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【Vol.74号記事】 ふとしたきっかけで自己を見つめる

ふと、それまでの考え方や受け止め方、そして生き方を変えるきっかけがあると思います。
そのきっかけは実に様々ですが、自分の生き方や考え方などが、このままでいいのかな?
こんな考え方はよくないな・・・、どうしていつもこんな風に受け取っちゃうんだろう・・・
普段、そのように思っていたり、考えていたり、あるいはそんな思いが深い部分でひっかかっていたり
する人はふとしたきっかけで流れを変えていく機会が多いと思います。

日々の暮らしの中で、周りを見渡してみると、あるいは本を読んでみたりテレビを見ているときでも
「なるほど!」と思ったり「あぁ、そうなんだよな・・・」と思う事があると思います。

柔軟な心、柔軟な頭を持てば、日々新しい発見をして、それがどんなに小さくても
自分の人生に発展進化をあたえるきっかけになるものです。

「四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳にしたがい・・・」
とは有名な孔子の言葉ですが、この言葉は七十過ぎとなった孔子が人生を振り返ってみて
そう感じた事で、それまで様々な経験を積み重ねた結果の言葉です。
四十歳になったとたんに不惑になるわけでも、五十歳になったから今日から天命を知れるかといったら
そんな筈も無く。ただ日々経験している多種多様な事柄と真摯に向かい合い、頑にならずに
死ぬまで進歩しつづけた孔子だったからこその言葉です。

日々歩む人生の中での出会いや起こる出来事の一つ一つの中に、ふとしたきっかけが潜んでいて
そのきっかけが大きく考え方や生き方を変える事があり、その積み重ねから不惑や天命を知るといった
事を後々感じられる様になるのだと思います。

それには、自分を見つめるということは欠かせません。またふとしたきっかけに気付ける柔軟性が元で
それが自分を見つめるきっかけとなり、さらなる変化の連鎖につながることもあるでしょう。

ふとしたきっかけ・・・なかなかそれに気付くのも難しいもので、人は他人の過ちや欠点はよく見えるのに
自分の事となるとけっこう見えていません。 

仏教の法句経に「他人の悪い所ばかり見たり、その人がしたことやしなかった事を取り上げてなにやら言うのではなく、ただ自分のした良くない事、しなければならないのにしなかった事をよく見よ」
とあります。同じような事は論語や聖書にも見られます。
「人の振り見て我が振り直せ」にも近いもので、
他人の欠点を指摘する前に自分の方へとその目を向ければ、いままで気付かなかったことに気付くきっかけに
なるかもしれません。

気付きや変化というものは、人から押し付けられて無理にそうさせられるものではなく、一人一人が自分で気付いて
自発的に心や目を向き直さなければその人の人生の発展には繋がらないものです。
ある時、ある瞬間、今まで気に留めなかった事を気に留めてみる。
リンゴの落ちる様子に何かのきっかけを得たニュートンの様にです。

社会全体が複雑になるに従い、人間一人一人がそれに翻弄されて自分を見失っていく事も多くなってきました。
社会の歯車に流されていればいるほど、自己を見失い、自分を苦しめる事に繋がります。
なぜなら、どんな人でも、核の部分では、より自分らしい光に満ちた人生を歩むよう働きかけているからです。

忙しくも難しい社会であるからこそ、自己を見つめる事、自発的に今まで気に留めていなかった事に
気持ちを向けてみることは大切です。

【Vol.73号記事】 個人の力

私達は一人一人実にユニークな個性があり、それは魂レベルにおいても同様で、
それぞれがテーマを持っています。
個人の力はスピリチュアルな言い方をすれば、天から与えられたものであり、それが
一人一人の強さに繋がっています。

力と言ってもバーベルを持ち上げたりとかの力じゃありませんよ(笑)

多くの人が、個人の力に気付かず、その存在を忘れてしまいます。
周囲の状況、人の意見、メディアの影響、社会通念といった不確定なものに左右され
翻弄される事で個人の力はその翻弄に明け渡してしまうのです。

あなたの人生は誰のものですか?まぎれも無く自分の人生は自分の物であり、
良くするも悪くするも結果的にはその自分自身の在り方次第です。
個人の力を知っている人は、周囲の雑音に翻弄される事は無く、それに力を売り渡すこともなく、
自分を幸福にする力を持っています。

個人の力は「〜すべき」事のためにあるのではなく、何かと比べて「〜こうならなければならない」というものの
ためにあるのでもありません。
個人の力とは、こうなりたいと思う自分を実現するためのもの。
自己実現のためのものです。個人の力とは自分を高潔にし、心の余裕をもたらし、それは
人を力づけ、助ける力にもなります。

個人の力とはなにか?
一言で言えば、一人一人の中にある「至高の愛」です。

誰も誰かの意志や思考をコントロールする事は出来ません。学びや気付きの機会があったとしても
それをそうであると認識して受け入れるのは結局は自分自身です。

何かと比べて力を得ようとしても、際限はありません。
不確定な物は不確定のまま。それらは時代によって定義も変わりますから、正しい正しくないの価値すら曖昧です。
そんな中で翻弄されて、個人の力を枯渇してしまうと、 愛も枯渇します。その枯渇を埋めようと誰かに、あるいは
誰かに依存するかもしれません。お金や物質を手に入れる事でそれを満たそうとすることもあるでしょう。
その結果、「〜でなければならない」という定義で自分の首を絞めたり、際限なく物を求める事に繋がります。

人間は愛無くして生きていけないのです。
そしてそれは元々備わっているものであり、強化していけるものなのです。しかし、現代は心が貧弱になって
愛が枯渇している人が多い。

ささいな事でも心から感謝できる人は、個人の力のある人です。
感謝は力を生み出します。
愛が枯渇している人は誰かを、あるいは何かを傷つけます。
トラブルを引き寄せて、それを誰かのせいにしてしまいます。
心からの感謝の気持ちがどんなものかを知れば、自ずと心は満たされ、愛のエネルギーが増し、
個人の力が強まります。
お金や物の豊かさで埋めようとしなくても、はるかに大きな心の豊かさへと通じる様になります。
感謝の筋肉を鍛えた事の無い人には分からないかもしれません。

頭や体を鍛えるのもいいですが、感謝の筋肉を鍛えることも忘れずに。

【Vol.72号記事】ありがとうとappreciation

「ありがとう」という言葉は「有り難き」から来ています。
時代劇などで偉い人から何かしてもらった家臣が「有り難き幸せ」と言ったりしますね。
「あり得ない程素晴らしい事です」という喜びと感謝の意が含まれています。

普段私達はなにげなくこの「ありがとう」という言葉を使っていますが、
実に奥深い意味があるわけです。昔の人は滅多に無い良い事があって、それを神仏の加護のように
思って畏敬の念をと共に言葉を使っていたかもしれません。
そうなると逆に滅多な事で言える言葉でもないので代わりに「すみません」と言ったりするわけです。
もっとも「すみません」という言葉はいろんな使い方が出来て、便利な一方で
こと『感謝』という点において、すみませんでは後ろめたさを感じるようなニュアンスなので
個人的にはあまり好きではありません。

本当に心底感謝の気持ちがあれば、「ありがとう」という言葉がすっと出てきます。
しかしながら、心の入っていない「ありがとう」をただ口癖のように繰り返す、ありがとうの安売りは感心しません。

さて、では英語ではどうでしょう? ありがとうと聞くとThank youのイメージが強いです。
たしかにそうですが、英語で感謝の意を表す時「appreciate」を使う事もあります。
名詞のappreciationは「感謝」という意味と同時に「理解」とか「正しく認識する」という
意味もあります。これを私はこう解釈しました。appreciationは感謝しつつ相手を理解するとか
相手に心を開くという意味が隠れているのでは?と。Thank you以上にこれもまた深い意味が
あるような気がします。

「ありがとう」と「appreciation」を比べてみると、なんだか国民性?が出てますね。
ですがどちらも素敵な意味があります。このような意味を心に込めて
感謝できたら素晴らしいと思います。

皆さんは今年どれだけ心を込めて感謝をしましたか?
誰かに感謝するだけでなく、自分という存在にも感謝しましたか?
世界規模で考えれば、無事に生まれて五体満足でこの世に存在し生きていられるのは
実は奇跡的な事です。ですから、一年の終わりに、自分の心も体も魂も含めて感謝してみては
いかがでしょう? そして私達を育んでくれている奇跡の星:地球にも。