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【Vol.71号記事】主人公

『主人公』と聞くと、なにかドラマや映画のキャストの様ですが、
実はれっきとした「公案」の一つなのです。
私自身は前回のメルマガで紹介した「婆子焼庵」の伏線的な感覚で
これを紐解きました。

この公案の深部には実にスピリチュアルな概念があるのですが、まずは表面的に解釈すると、
一言で言ってしまえば「主人公」とは『本来の自分自身を生きろ』ということ。
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中国がまだ唐の時代、瑞巌師彦(ずいがんしげん)という和尚さんがいました。
彼は日々、自分に「主人公」と問いかけて、「はい」と答えていました。
「はっきり目を覚ましていなさい」
「はい」
「どんな時も他人に騙されてはならない」
「はい」
このように自問自答していたのです。
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さて、これはいかに?
単純に内省内観の事を説いている様にも見えますが、それだけではありません。
前回「禅は生きている者のためにあり」と書きました。
仏というものは死んだ人の事ではなく、本来は生きた自分自身の事です。
自己の本質こそ仏、ハイヤーセルフとか大我(真我)の事でしょうか。
死人の様に生きるのではなく、活き活きと生きることも含まれます。

周囲の状況に左右されず、迎合することもなく、欲や執着にかられる事無く、
恐れず、芯がぶれず、ただただ自分の本質であることこそ「主人公」
なわけです。本当の自分=主人公。

「はっきり目を覚ましていなさい」というのは『覚者たれ』という事で
「無」であれという意味に取る事も出来ます。
「無」というのは何も無いのではなく、境界線などどこにも無いという事。
つまるところワンネス意識の事でしょうか。

これには主体と客体(わたしとあなた)の区別がありません。これは物質世界での事ではなく
霊的世界での話で、それぞれの魂の本質は、このワンネス意識のポータルと考えます。
この辺はアルカディアでのレイキ勉強会で度々お話ししている事ですね。

ここまでくるとちょっと現実的なところから離れそうなので、一歩手前に戻します。
「水急なれど月を流さず」という言葉があります。どんなに急な流れの水でも
それに映る月を流し去る事は出来ないという意味です。
月はとは自己の本質、本来の自分の事。周囲の雑音に流されない「主人公」の事。

本来の自分を生きている人はぶれません。とても正直でそして強い。
だから慈悲深く、無条件の愛をそそいでも枯渇する事はありません。
自分が自分としてある在り方が分かっているから、悩む事も無い。
試練を学びとして感受し、乗り越えていける。
故に魂のテーマを活き活きと生きられるわけです。

まぁ難しい話はこれくらいにして、「自分を忘れるな、主人公たれ」という事で・・・最後に。
この年末、忘年会などで羽目を外しすぎて自分を見失ってしまう方もいるかれもしれませんので
くれぐれもご用心ですぞ!

【Vol.70号記事】 婆子焼庵

ここのところ漢字だらけの言葉の解説が続いています・・・。
私は漢字が苦手で、申し訳ない事に講座中も漢字を失念することしばしば
なのですが、苦手なものから逃げていても学びになりませんから
それをいかに面白くするかを考えた時、『調べる楽しみ』を見つけました。

で、最近は禅問答の言葉(公案)をしげしげと見つめ、目についた言葉を
ここで解説させていただいている次第。
私は仏教徒でも神道でもありませんが、日本人である以上日本のDNAの中にある
このような古くてありがたい概念(多くは中国から来ていても)
を見聞きするのは大切なんじゃないかと思っています。

「婆子焼庵」とは、簡単に言ってしまえば『臨機応変に精一杯生きろ』です。
(中国語で婆子とは老婆のこと)
このお話、端折って説明させていただくと
注*公案は道徳感を説くものではなく、あくまで仏教の教えの中にあるものなので
出世間(しゅっせけん)的に説かれています*
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一人の老婆がいました。
清僧を庵に住まわせて二十年。そろそろ修行も進んだ筈だと老婆が若い娘を連れてきて
僧侶に抱きつかせ、こう問わせました。
「若い娘に抱きつかれた時あなたはどうされるのですか?」
すると僧侶はこう返します。
「そのような事をしても所詮は枯木が凍り付いた岩に寄りかかっているようなもの。
冬の三ヶ月に暖気が無い様に(私の心は)少しも動きません」
そう言って娘を断固拒否。
すると老婆は庵から僧侶を追い出し庵を焼いてしまったのでした。
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さて、見事に娘をはねのけた僧侶はなぜ老婆から怒りを買わなければ
ならなかったのでしょう?

老婆はこう言いたかった様です。
禅は死人のものではなく生きた人間のもの。この僧侶は無理をしている。
わざとらしい言葉を言い、力みがある。
若い娘を枯木扱いするとはいかに?
娘の心を傷つけず、私の怒りも買わない臨機応変さが必要だ。
この僧侶こそ枯木ではないか?
禅は死人の為にあらず生きた人間の為。
自分を殺して生きるとは、一体何の為の禅ぞ?

なるほど生きていく上では臨機応変は大切です。
僧侶とて自由な振る舞いが出来る知恵が必要。
何事も、誰も傷つけず平和的にやってのけてこそ修行のかいがあったというもの。
どんな場所でもどんな時でもどんな境遇でも、優しく生き生きとした人間でないと。
この僧侶は何と言えばよかったのでしょうね?
「いや〜まいりましたなー。冬枯れした我が心に春が訪れ、
おやおや新芽が生えました。はっはっはー」とか?
(↑これは私の考えです。解釈は皆様にお任せします(笑)

いずれにせよ、この僧侶の様に『自分は岩です』・・・じゃ味気ないですよね?
人間ならば喜怒哀楽があって当然。
人生喜怒哀楽いろいろな経験を積んで、柔軟性のある潤いのある心を養えば
やがて「慈悲の心」が育ちます。誰にでも笑顔で、優しく。
これはキリスト教で言う所のアガペーと同じ感じでしょうか?

禅の世界では煩悩を克服することを目標としてますが
煩悩にこだわる事じたいが煩悩であると説いています。
何事も頑になってしまえば柔軟性も潤いも無くなります。
エネルギーも粘っこくなって流れが悪くなります。あらら。
日々な〜んとな〜くだらだらと生きていたら残念なことになってしまいますが、
かっちかちの岩のような頭や心で生きていても同じ事。
精一杯生きる事は頑になる事ではなくて、臨機応変自由自在に自分を使って
やるだけやってみる事。

さて皆さんはこの一年、臨機応変精一杯生きてきましたか?
どんな事に打ち込んで何を感じたでしょう?

【Vol.69号記事】平常心是道

さて、前回「直心是道場」のお話をしました。引き続き、私が学生時代に弓道場に掲げてあった
言葉「平常心是道」のお話。
「びょうじょうしん」とも読むそうですが、私はそのまま「へいじょうしん」と読んでいます。

この平常心とはいかに?

平常心とは「いつもと変わらぬありのままの状態でいられる事」を指します。
たとえばWBCで見せたイチロー選手の様に、ここぞというときに偉業を成し遂げられるのは
運の良さはもちろんですけれども、淡々と積み重ねた鍛錬と、物怖じすることなく、何のてらいも無く
いつもの通りに臨む強い心でもあります。

的前に立っているときは私語禁止なのは当たり前で、これは事故が起きたらえらいことになるから
なんですけれども、平常心是道の言葉に乗っ取れば、「矢を的に当てようと欲を出してはならない、
心を無にしていなければ正しく矢は飛んでいかない」という戒めでもあります。
日本古来からある「道」の付くものは、形より先に心ありきなのです。

天国も地獄も、その殆どが自分の心が作り出すもので、平常心でいることはそのどちらでもない
バランスの取れた状態そのものを指すと言えるでしょう。
因果応報も同じです。現実は自らの心が生み出す
ちなみにあの世の天国も地獄も、結果的には自分が生きていた時の心のあり方次第と言えます。

さりとて人間には上下する感情があります。なかなかニュートラルでいることは難しい。
だから「道」なのです。 そして、その感情の上下を味わいながらも、きちんとニュートラルな状態に
戻れるメリハリのある心があるから道を真っ直ぐすすんでいけると思います。

グラウンディングとセンタリング、落ち着いてこの瞬間に集中できる状態であることの重要性を
各講座でお話ししていますが、その一方でグラウンディングし過ぎも良く無いですよ〜と言っています。
グラウンディングのし過ぎは、落ち込んでいる時に新月のエネルギーでさらに落ち込むようなもので、
安定しているとは言い難い。

腹が据わって落ち着いていて、感情の波に流されない時間を一日の中でどれくらい持っていますか?
せめて寝る前の5分でも、深い呼吸とともに無になってみましょう。

あなたが平常心でいる時とはどんな時でしょう? 何をしている時、どんな状況の時でしょう?